100冊買う価値 東雲信者の言い分
100冊本を買ったとしよう。
それが100種類の本であれば人は読書家と評し、1種類の本だけであれば人はそれを狂人と称する。
前者はいわゆるラノベ愛読者である。
では後者は?答えは信者だ。
どうも東雲信者です。
今日は東雲信者が信者たる所以の逸話とそれに関連したお話をさせて頂こうと思います。
前述の通り、多くの人はこのように評するでしょう。
私自身も一応自覚はあるので、割と頭のおかしいことをやっている自覚はあります。
他の方の言い分はもちろん分かります。
同じ100冊本を手に入れれる権利を与えられたとして(値段がバラバラなのは今回は割愛します)同条件なら私も同じく前者の100種類の本を読み見聞を深めるでしょう。
それを放棄して、何故このような行動に至ったのか?
本日の本題はこちらになります。
ここで話を変えますが、例えば貴方が週2回食事に出かけたとしましょう。
同じ店を通う人もいれば、新たな食事処を見つけるために様々な飲食店を通う人もいるでしょう。
この場合、彼らを例えるならなんと評するでしょうか?
恐らく前者を「常連」、後者を「一見」と評するのがこの場合に該当すると思います。
何故この話を突然出したのか?答えは簡単であります。
週2回の頻度ですと、1年換算で100回に相当します。
もうお分かりですね?
冒頭にお話しさせて頂いた例えに直すのであれば、
飲食においての100回同じ場所に通うのは「常連」、すなわち一般的です。
そして、100回別の場所に通うのは「一見」、これもまた一般的です。
「飲食と読書は違う」、「屁理屈だ」、「これとそれとは別件だ」
そういう方も多く見えられると思います。
別の話に例えさせて頂きましょう。
片方は1人の人間を愛し、もう片方はこれまで100人を愛した経験を持っている。
この場合、前者の方は「一途」と称され、後者はそれこそ「不純」と称されるのではないのでしょうか?
これもやはり詭弁な話になるのかと思います。
要するに私が言いたいのは、物事を評するときには各々の価値観を大事にしなくてはならないということです。
冒頭の「愛読家」という評価も、極端な言い方をすれば「移り気な読者」と評することもできます。
もちろん、読書において多くの文学作品に触れることはとてもいいことです。
しかし、自身の価値観や固定概念に囚われて称することは非常に危ういことであると私は思うのです。
私は森橋ビンゴ作品を通算100冊以上買ってきました。
東雲侑子関連書籍だけでも70冊以上、この恋関連だけでも50冊以上は確実に買っています。
そしてそれを多くの方々に「読んで頂きたい」、「良さを共有したい」という一心で布教してまいりました。
その信念は今も変わりないと自負しております。
それは森橋先生が「ライトノベル」というジャンルを引退してもです。
私にとって一生で最も愛する作品が「東雲侑子」シリーズ・「この恋」シリーズであった、ただそれだけのことなんです。
皆様にとって愛読書が各々あるように、今作が私にとっての最愛の愛読書なのです。
本当に、ただそれだけなんです・・・