東雲信者と、その未来。-一年目 冬-

自分の好きなものをだらだら語るブログ 基本的に森橋ビンゴ先生作品について あと好きなゲーム漫画とか

伏線は必要か否か?

少し前に伏線の有無に関して、話題になったみたいである。

流行が過ぎてから、その問題を取り上げるのが私の癖なので今回はそれについて触れようと思います。

どうも東雲信者です。

 

とりあえず、伏線に関して個人の見解を述べさせて頂こうと思う。

伏線の有無に関して思うことはあるに越したことはない。

ただ、伏線を回収できるか否かというとそれはまた別の話になってしまう。

伏線を引いておきましたがそれを回収できずに完結してしまったというケースは珍しくないと思う。

伏線は作品の方向性を縛ってしまう危険性もある。

 

恋愛小説で例にしてみよう。

作中において主人公と離れ離れになった幼馴染の女の子の存在を匂わせたと仮定しよう。

当然、作中でその人物が登場する、もしくはそれに準ずる人物との関係性を仄めかす展開が予想できるのではないのかと思う。

その中で、作品がその幼馴染を登場させずに完結したらどうであろうか?

未回収の伏線というものは読者の想像を膨らませる場合と、その逆の場合に展開してしまうのである。

今回の例で挙げるのであれば、恐らく後者の気持ちになる読者が多数存在すると私は考えている。

 

では伏線はなぜ必要なのか?

一つは、後に展開される話への関連性である。

実は初恋の人物だった、実は初対面ではなかった。

という展開を用意した場合、突然このような描写を描いても読者は感動しないことが多いと思う。

恋愛作品においてもそうだし、作品展開とそれを読者に納得させる前置きは必要不可欠なのだ。

動機の重みづけとでも言えるであろう。作中での登場人物や話の展開がどうしてこうなったのかを決定づける要素、それが「伏線」であると私は考えている。

 

もう一つは、感動体験を引き出す効果である。

これは前者の内容に付随しているが、優れた作品の伏線回収は

 

1. 不明確な「伏線」を読者の想像を超える形で魅せ、読者に納得させる

2. 明確な「伏線」を読者の想像を超える形で魅せ、読者を納得させる

3. 「伏線」でないものを「伏線」に仕立て上げ、読者を納得させる

 

この3つであると個人的に考えている。

1については「伏線を如何に隠して、それを回収するか?」である。

多すぎず、少なすぎず如何に自然に伏線を張り、それをタイミングよく回収するかである。

個人的にこれが上手いという著者は「森橋ビンゴ」先生である。

読み返したときに、実は伏線になっていたという展開は多数あるのだ。

「この恋」シリーズもそんな一冊なので是非手に取って頂きたいと思う。

 

2は伏線をどの様に納得できる形で回収するか?

これは非常に難しいうえに、著者の実力が試される。

個人的にこれが上手い作者がいる。漫画家の「松井優征」先生である。

暗殺教室」で有名な漫画家であるが、彼の真骨頂は前作の「魔人探偵脳噛ネウロ」がそれである。

彼は1の魅せ方ももちろんだが、伏線と思わせたものを読者の想像以上に展開するという魅せ方が本当に上手いと個人的に感じている。

随所にちりばめられた伏線を一つの方向へ上手く纏めるという手法に関しては、非常に高いレベルの領域にある作者であるのは間違いないであろう。

 

最後の3について述べよう。

これは言ってしまえばこじつけである。

伏線でないものを伏線にするということは、すなわち後付けなのだ。

それを如何に読者に納得できる形で魅せることが出来るのか?

その為に作品自体を深く理解する必要がある。理解したうえで伏線に仕立て上げる。

作品を理解しているからこそ、その伏線でないものは作中の展開に説得力を持ち、読者は納得してしまうのである。要するにある意味「力技」なのである。

この魅せ方が上手い先生は私が知る中では「キン肉マン」を手掛けた漫画家「ゆでたまご」先生である。

こじつけと評したが、その展開を進めるうえで作中のキャラやその伏線ではないものをどういった形で伏線に仕立て上げるか?

ことその作品展開においては彼等が一番であると私は思っている。

 

伏線回収について述べさせて頂いたが、優れた作品は伏線をきちんと回収する。

時に綿密に用意したものを、時には作者の予想以上の形で、時には伏線ですらないものを伏線に仕立て上げて。

伏線が必要か否かと言われれば必要であると断言できる。

しかし、それを回収できるかは作品展開の都合上断言はできないのもまた事実である。

打ち切りなどの局面が日常茶飯事の出版業界において、作者の思惑が必ずしも叶うとは限らないし、読者も同じ立場なのである。

そうした中で、伏線というものに対して個人の見解を言って本記事を締めたいと思う。

 

伏線は必要である。しかし、なくても良いのだ。

それは作者の得意不得意や実力に見合った技術に応じて用いれば良いのである。

大事なのは伏線を回収すること、そしてそれがもしなかったとしても伏線に仕立て上げれば良いのである。

その為にはやはり作者がどれだけ作品を理解し、人物や背景を把握出来るかに尽きると思っている。

それを実現して初めて、伏線が活きてくるのではないかと私は考えている。