東雲信者と、その未来。-一年目 冬-

自分の好きなものをだらだら語るブログ 基本的に森橋ビンゴ先生作品について あと好きなゲーム漫画とか

冴えない出版社(KAD○KAWA)の育て方 打ち切りに対しての最初で最後の異論

まず初めに、この記事は2014年6月30日に連載開始し、2016年5月30日に打ち切りとなってしまった「この恋と、その未来。」シリーズの打ち切りに対して信者を自称している私が、出版社に対して異論を唱える記事となっております。

要はただの「八つ当たり」です。

私はこれまでに、どれだけファミ通文庫様が最善を尽くされたかを自分なりに考察し改善案や打ち切りに至った敗因を語らせて頂きました。

全てはこの記事を書くために書いたつもりです。

安易に非難するのはバカでも出来ます。しかし私は「東雲信者」です。

すなわち、この一連の騒動の良いところ悪いところの全てから目を逸らしてはなりません。

そして、これから私が行う事は森橋ビンゴ先生に逆らう最初で最後の機会にしたいと考えております。

私の敬愛する森橋ビンゴ先生は「出版社を責めないでください、すべて私の責任です」といった趣旨の発言をされております。

これから私がやろうとしていることは、はっきり言って「信者失格」の発言になります。

しかし、その烙印を押されても言わなければならない。

どのような仕打ちを受けてこの作品が打ち切りに至ったのかを、最善を尽くさなかった出版社の怠慢を、読者が被った嘆きを。

 

以下より私ではなく、俺を名乗らせて頂きます。

最初で最後の俺の記事。

 

 

森橋先生ごめんなさい、人生で最初で最後に貴方の言葉を破ります。

でも貴方の作品はもっと売れた、少なくとも俺はそう思ってます。

 

続きを読む

打ち切りと、作品の未来。 ライトノベル愛読者に言いたいこと

完結の仕方は作品それぞれ。

打ち切りってその中で一番のバットエンドだと個人的に思ってる。

私が知らないだけで、ラノベを多く愛読してる皆様には日常茶飯事であったりするかもしれませんが。

どうも東雲信者です。

 

死刑宣告(打ち切り)受けた作品がどのような未来かはこのブログで散々触れたので割愛しますが、今後の出版業界について個人的に思うことを。

今回打ち切られたのはファミ通文庫、その中でもこのライトノベルがすごい!で高評価を受けていた作品この恋と、その未来。が打ち切られたという事実は非常に危惧するべき事実であると私は警鐘を鳴らしたいのだ。

 

ファミ通文庫の刊行状況は非常に厳しいと思う。

電撃文庫などの他レーベルと違い、アニメ化などの大規模な販売展開が難しいことからも本当に厳しい状況にあると考えている。

他メディアに多方向に展開できる機会、「アニメ化」という機会は間違いなく利益を上げる大きな機会なのはいうまでもないだろう。

ファミ通文庫にはファミ通文庫の強み、ゲーム原作のライトノベル刊行や青春ラブコメディを主流とした血脈は今後も受け継がれるべきであると私は思っている。

ただ、読者の願いは虚しく、母体となるKADOKAWAの方針から方向転換を余儀なくされてるのかもしれない。

 

それらを踏まえたうえで私が言いたいこと、それは作品にとっての死刑宣告「打ち切り」について。

2015年においてこのラノ」9位を入賞し、2016年では16位

順位だけ見れば確かに下降している、しかし今作がファミ通文庫の中で最上位であるのは紛れもない事実である。

極論になるが、「この恋」以下のランキング作品は売り上げの名目のもと打ち切られるということである。

むしろ、「この恋」以下の売り上げの作品は打ち切るべきなのである。

 

出版社の下した判断に基づく言い分を通すのであれば・・・

 

このラノのランキングを重視し過ぎないかもしれないが、読者に高く評価されていたのは紛れもない事実である。

その作品が打ち切られた事実は我々読者はもっと深刻に考えなければならない事態なのである。

 

そして、「ファミ通文庫」はKADOKAWAが母体である。

つまり、KADOKAWAの方針、つまりKADOKAWA作品はどれだけ高い評価を受けようとも問答無用で「売り上げ重視」の名のもとに「打ち切られる」のである。

 そして、KADOKAWA業界最大手である。

上に倣えの出版業界、どの作品も問答無用で「死刑宣告」を受ける。

 

売り上げ重視なのも重々承知である、売り上げが無ければ経営は成り立たない。

それは紛れもない事実である。

しかし、その売り上げにもっとも貢献しているのは我々「読者」であるのも紛れもない事実である。

一矢報いろとは無理には言わない、残念だと嘆くなとも言わない。

しかし、それだけでいいのか?

もう一度それを皆様に問いたい。

「打ち切り」の事実を納得できる読者など恐らくいないだろう。

なら我々は何を出来るのか?

もう一度諸君らに私から問いたい。

出版社の「死刑宣告」の前に・・・

冴えない作品の育て方 打ち切りにならないためには?

どんな作品にも始まりと終わりがあるように、作品には理想的な終わり方があります。

いつぞやの記事で言わせて頂きましたが、作品を如何に終わらせるか?

昨今の出版物事情を垣間見るにそう思う機会が多々あります。

どうも東雲信者です。

 

本日は「打ち切り」という作者にも出版社にも、そして読者にも不利益なこの冷たい現実を如何に避けることが出来るのか?

というテーマを語りたいと思います。

 

さて、みなさんの理想的なライトノベルの長さはどれぐらいでしょうか?

5巻?10巻?20巻?30巻?

読む人や作品によって様々な意見があると思います。

そんな中で私の思う、理想的な巻数は「10~15」巻程です。

もう少し具体数を上げるのであれば、10巻以内に基本納める、長くても15巻を目安に完結するというのが私の自論です。

 

これにはいろいろと理由がありますが、これまで多くの作品を見てきた中でこれぐらいの長さがもっとも最適であると感じているからです。

連載年数に直すと約5年、作品の寿命的なことを考えると3~5年を目安に一区切りを迎えるのが理想的であると思います。

 

10~15巻程刊行する作品の流れとして、原作がアニメ化を前後に完結を迎えるというのが個人的に美しいと考えているからです。

長く続くことが難しい昨今、出版業界も人気作に取り繕う必要が多いように感じられます。

また、人気作を完結したからと言って次期新作が売れる保証もありません。

しかし、完結出来た作品を徒に延命させた作品も多数あります。

作者の一番最初の読者である出版社が、作者の手掛ける作品を信じずに誰が世に広めることが出来るのか?

 

理想的な完結を迎えれる作品がどれだけ恵まれているのかを再認識した今日この頃。

あの日から約20日・・・

あの悲劇を我々は忘れてはいけない・・・

100冊買う価値 東雲信者の言い分

100冊本を買ったとしよう。

それが100種類の本であれば人は読書家と評し、1種類の本だけであれば人はそれを狂人と称する。

前者はいわゆるラノベ愛読者である。

では後者は?答えは信者だ。

どうも東雲信者です。

 

今日は東雲信者が信者たる所以の逸話とそれに関連したお話をさせて頂こうと思います。

前述の通り、多くの人はこのように評するでしょう。

私自身も一応自覚はあるので、割と頭のおかしいことをやっている自覚はあります。

他の方の言い分はもちろん分かります。

同じ100冊本を手に入れれる権利を与えられたとして(値段がバラバラなのは今回は割愛します)同条件なら私も同じく前者の100種類の本を読み見聞を深めるでしょう。

それを放棄して、何故このような行動に至ったのか?

本日の本題はこちらになります。

 

ここで話を変えますが、例えば貴方が週2回食事に出かけたとしましょう。

同じ店を通う人もいれば、新たな食事処を見つけるために様々な飲食店を通う人もいるでしょう。

この場合、彼らを例えるならなんと評するでしょうか?

恐らく前者を「常連」、後者を「一見」と評するのがこの場合に該当すると思います。

何故この話を突然出したのか?答えは簡単であります。

週2回の頻度ですと、1年換算で100回に相当します。

もうお分かりですね?

冒頭にお話しさせて頂いた例えに直すのであれば、

飲食においての100回同じ場所に通うのは「常連」、すなわち一般的です。

そして、100回別の場所に通うのは「一見」、これもまた一般的です。

 

「飲食と読書は違う」、「屁理屈だ」、「これとそれとは別件だ」

そういう方も多く見えられると思います。

別の話に例えさせて頂きましょう。

片方は1人の人間を愛し、もう片方はこれまで100人を愛した経験を持っている。

この場合、前者の方は「一途」と称され、後者はそれこそ「不純」と称されるのではないのでしょうか?

これもやはり詭弁な話になるのかと思います。

 

要するに私が言いたいのは、物事を評するときには各々の価値観を大事にしなくてはならないということです。

冒頭の「愛読家」という評価も、極端な言い方をすれば「移り気な読者」と評することもできます。

もちろん、読書において多くの文学作品に触れることはとてもいいことです。

しかし、自身の価値観や固定概念に囚われて称することは非常に危ういことであると私は思うのです。

 

私は森橋ビンゴ作品を通算100冊以上買ってきました。

東雲侑子関連書籍だけでも70冊以上、この恋関連だけでも50冊以上は確実に買っています。

そしてそれを多くの方々に「読んで頂きたい」、「良さを共有したい」という一心で布教してまいりました。

その信念は今も変わりないと自負しております。

それは森橋先生が「ライトノベル」というジャンルを引退してもです。

私にとって一生で最も愛する作品が「東雲侑子」シリーズ・「この恋」シリーズであった、ただそれだけのことなんです。

皆様にとって愛読書が各々あるように、今作が私にとっての最愛の愛読書なのです。

本当に、ただそれだけなんです・・・

「この恋と、その未来。」シリーズ愛読者に捧げる一曲

東雲信者です。

今回は以前に語ったかもしれませんが、「この恋」シリーズを読んでる皆さんに聞いて欲しい一曲を紹介します。

今だからこそ聞いて欲しいと思います。

ネタバレはありませんが、全巻読み進めた後に聞くとより作品世界を楽しめると思います。

 


茅原実里「PRECIOUS ONE」PV

 

茅原実里「PRECIOUS ONE」

 

2009年12月23日発売と少し古い曲ではありますが、是非とも聞いて頂きたいです。

 

四郎の決断と、未来の選択・・・

各々の選択に対してこの歌詞がすごく当てはまると思います。

 

「例えばまたあの日が来たって、きっと同じ答えを選ぶね」

「躊躇う思いじゃなかった、痛いほどにそれしかなかった」

 

本編を読んで頂いた方なら、この歌詞がグッとくるかと思います。

それぐらいピッタリではないかと個人的に思っています。

相手のことを思うからこその決断、たとえそれが時に残酷であろうともそれは選ばねばならない時がある。

そんな彼らの決断を思い出して頂ければと思います。

 

さて、今回は少し話を変えて何故私が歌をよく引き合いに出すのかを話させて頂きたいと思います。

一言で言えば完成された作品を表現するのに、非常に便利だからです。

歌というのは完成された作品です。当然それをそのまま引用すれば非常に簡単に思ったことを代弁できます。

そうした意味で、思ったことを歌にするというのは有効なのですが私の中ではもう一つ別の大きな意味があります。

 

それは、「作品世界の魅力を引き出す」という点です。

 

料理で例にしてみましょう。

例えば、貴方がおいしい料理に出会ったとしましょう。

そんな時においしさを何かの引き合いに出すことは一般的な感想を口にする事と同義であります。

「美味しい」や「素材の旨みを引き出してる」等の言葉がそれに該当します。

ではこの場合の「歌」に該当するものは何か?

それは「別の料理」であったり、「酒」等の「飲み物」がそれに該当します。

 

つまり、文学作品などの感想表現に「歌」を引き合いに出すということは、私の中では「その料理に合う飲み物」を引き合いに出すことと同義であると考えております。

いかがでしょうか?そう考えれば何故私がよく作品の感想の引き合いに「歌の歌詞」を多用するのかを理解して頂けるのではないかと思います。

もしご機会あれば、別の楽曲を紹介させて頂ければと思います。

 

forever,your my precious one...

何故「この恋と、その未来。」は打ち切られてしまったのか? (増版に至れなかった理由)

少し、重複するかもしれないけどどうしても書きたかったので。

どうも東雲信者です。

 

先日までは可能な限り考えれる理由を述べさせて頂きました。

出版社の意向や方針によるもの、作者自身の執筆速度、そして出版社自体の市場へのアプローチについて。

今回は、その中で触れた「版数の問題」について

つまり、「何故増版出来なかったのか?」についてもう少し語りたいと思います。

 

関連記事

 

ntypeog3.hatenablog.com

ntypeog3.hatenablog.com

ntypeog3.hatenablog.com

ntypeog3.hatenablog.com

 

上記の記事でも書きましたが、この恋と、その未来。という作品は知名度こそ他メディアにも数多く展開している作品に比べ評価されている作品でありました。

それは2015年度このライトノベルがすごい!」9位入賞という実績からもご理解いただけると思います。

また、前作東雲侑子」シリーズの高評価もあり、先述の結果を勝ち取れたとも思います。

 

ではそんな作品が増版出来なかったのか?

一般読者には難しいから?売り上げが見込めないから?

上記理由の他に、私は「既刊シリーズの市場供給量過多によるものである」と考えております。

簡単に言えば「売れ残り」ですね。

増版へのプロセスは先日の記事でも触れましたが、一般的に出版社は本を発行した分著作権料などを支払う必要があります。

加えて、増版などの刊行する際には印刷し本を刷らねばならないのでコストがかかります。

 

つまり、「増版」=「コスト」になるわけです。

この「増版」と言う手順に至る大きな要因はやはり売り上げが起因し、

 

「売り上げによる利益」>「増版によるコスト(損失)」

 

に相当しなければ、増版にはならないということです。(一部の例外を除きますが)

 

「この恋」シリーズの軌跡については以前語りましたが、前作東雲侑子」シリーズ発売から2年以上の間が空いていました。

加えて、連載終了後に電子書籍での刊行も決定しておりました。(フルカラーですので是非ともお手に取ってください。)

つまり旧作です。市場でも目にする機会が減っておりました。

そんな旧作と連動した大規模なキャンペーンを刊行しようとした際に、

 

1.出版社の想像以上に「この恋」初巻の売れ行きが悪い

2.前作「東雲侑子」シリーズは旧作であり、市場での価値は見込めない

3.上記2つに起因し、市場全体で見ると増版を掛ける意義が見出せない

 

この3つの理由が大きな原因になり、大規模な増版に至れなかったのが今作打ち切りの顛末なのではないのかと思います。

再版に関しても、恐らく大手書店やキャンペーン連動書店などへの補充発注分程度でそこまで大きな数刷っていたわけではないかと思います。

その結果

 

市場の一部(大手書店等)で在庫不足に、しかし市場全体でみると売れていないから大がかりな増版はできない。

その結果、補充のみの増版になってしまった。

その結果「このラノ」ベスト10位以内にも関わらず、市場に十分な量供給できていない。

新規読者の獲得機会を大きく逸らす。

つまるところ、「売り逃してしまった」ということです。

 

シリーズ作品で、1巻が無い。

続きを読もうと書店へ立ち寄ったら、続きが無くて買えなかった。

 

買い逃しの機会は、新規読者を容易に逃がします。

それがどれだけ面白い作品であっても。

 

 

忘れないでください、この作品が歩んできた過去を。

忘れないでください、この作品が亡くなった現在を。

忘れないでください、この恋と、その未来。を。

 

東雲信者より・・・

出版業界と、その未来。 (今回の騒動から今後どうなっていくのかを考察してみる)

東雲信者です。

早いもので二週間。

ありがたいことに記事を読んで頂いてくれる人もいるみたいです。

それでも、徐々に忘れられつつあります。

 

今回の騒動から、一読者の視点から出版業界について何が起こっているのかを今回は考えてみようかと思います。

 

さて、あと2巻で完結するにも関わらず未完の形で終えてしまった今作。

採算が合わないという名目ですが、残り2冊すら出すのが厳しい状況から垣間見える出版業界は我々の予想以上に深刻なようです。

 

コンテンツはここ最近、急激な勢いで発展していきました。

出版すれば売れる時代は過去のものですが、売れる商品でも宣伝活動が特に重要であるというのは言うまでもありません。

では何故ここまで売れなくなってしまったのか?

 

多くの理由はありますが、その一つに多くの他コンテンツを容易に入手することができるようになったというのがあります。

いわゆる「なろう」シリーズの台頭、すなわち「作品コンテンツの無償化」です。

 

これまで、お金を払わなければ作品を読めなかったものがインターネットやSNSを通じて非常に簡単に読めるようになった。

作品をスマホやPCで手軽に作成できるようになった。

イラストや文章をワンボタンで全世界に配信できるようになったことで、作品を作者と読者が共有する時代に移行しつつあります。

 

もちろんこれは、「無償コンテンツ」の非難ではありません。

新時代の到来でもありますし、エンターテイメントコンテンツの種類が豊かになったことの象徴でもあります。

便利さを手に入れたからこその発展であります。

 

当然、出版業界もそうした時代の波に対応すべく様々な舵取りをする必要が出てきました。

そうした「新時代への対応策」、そんな時代背景も今回の騒動には感じ取れます。

良いものが安易に売れなくなった、たとえいい作品でも売上次第で打ち切られてしまいやすくなってしまったのかもしれません。

 

しかし、そんな出版業界に一言言わせて頂きたい。

時代は変わります。それも急速に。

大手企業であればそれも柔軟に迅速に。

それでも、作品あっての出版業。作者あっての作品です。

 

大手企業だからこそ、これまで培ってきた努力の結晶を安易に手放してはならないと私は思うのです。

良いものはそれに見合った価値を出す人々は必ずいる。それも少数ではない。

新時代に備えるのも大事ですが、これまで歩んできた軌跡も大事にして頂きたいと思っております。